夜明けに山月記を読み返す⛰

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1:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 04:54:25.00 ID:2eQI3+2cd

・・・


2:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 04:54:33.74 ID:2eQI3+2cd

山月記 中島敦


4:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 04:55:31.99 ID:2eQI3+2cd

隴西の李徴は博學才穎[えい]、天寶の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃む所頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかつた。
いくばくもなく官を退いた後は、故山、虢略に歸臥し、人と交を絶つて、ひたすら詩作に耽つた。下吏となつて長く膝を俗惡な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺さうとしたのである。
しかし、文名は容易に揚らず、生活は日を逐うて苦しくなる。李徴は漸く焦躁に驅られて來た。
この頃から其の容貌も峭刻となり、肉落ち骨秀で、眼光のみ徒らに烱々として、曾て進士に登第した頃の豐頬の美少年の俤は、何處に求めやうもない。


5:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 04:55:53.17 ID:+NXi3ixx0

詩もええよ


6:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 04:57:40.10 ID:5oT5hL03d

數年の後、貧窮に堪へず、妻子の衣食のために遂に節を屈して、再び東へ赴き、一地方官吏の職を奉ずることになつた。
一方、之は、己の詩業に半ば絶望したためでもある。曾ての同輩は既に遙か高位に進み、彼が昔、鈍物として齒牙にもかけなかつた其の連中の下命を拜さねばならぬことが、往年の儁[しゆん]才李徴の自尊心を如何に傷つけたかは、想像に難くない。
彼は怏々として樂しまず、狂悖[はい]の性は愈々抑へ難くなつた。


7:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 04:57:55.99 ID:5oT5hL03d

一年の後、公用で旅に出、汝水のほとりに宿つた時、遂に發狂した。
或夜半、急に顏色を變へて寢床から起上ると、何か譯の分らぬことを叫びつつ其の儘下にとび下りて、闇の中へ駈出した。
彼は二度と戻つて來なかつた。附近の山野を搜索しても、何の手掛りもない。その後李徴がどうなつたかを知る者は、誰もなかつた。


8:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 04:58:47.92 ID:5oT5hL03d

翌年、監察御史、陳郡の袁傪といふ者、勅命を奉じて嶺南に使し、途に商於の地に宿つた。
次の朝未だ暗い中に出發しようとした所、驛吏が言ふことに、これから先の道に人喰虎が出る故、旅人は白晝でなければ、通れない。今はまだ朝が早いから、今少し待たれたが宜しいでせうと。
袁傪は、しかし、供廻りの多勢なのを恃み、驛吏の言葉を斥けて、出發した。
殘月の光をたよりに林中の草地を通つて行つた時、果して一匹の猛虎が叢の中から躍り出た。
虎は、あはや袁傪に躍りかかるかと見えたが、忽ち身を飜して、元の叢に隱れた。叢の中から人間の聲で「あぶない所だつた」と繰返し呟くのが聞えた。
其の聲に袁傪は聞き憶えがあつた。驚懼の中にも、彼は咄嗟に思ひあたつて、叫んだ。「其の聲は、我が友、李徴子ではないか?」


9:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 04:59:28.44 ID:5oT5hL03d

袁傪は李徴と同年に進士の第に登り、友人の少かつた李徴にとつては、最も親しい友であつた。温和な袁傪の性格が、峻峭な李徴の性情と衝突しなかつたためであらう。
叢の中からは、暫く返辭が無かつた。しのび泣きかと思はれる微かな聲が時々洩れるばかりである。ややあつて、低い聲が答へた。「如何にも自分は隴西の李徴である」と。
袁傪は恐怖を忘れ、馬から下りて叢に近づき、懷かしげに久濶を叙した。そして、何故叢から出て來ないのかと問うた。
李徴の聲が答へて言ふ。
自分は今や異類の身となつてゐる。どうして、おめゝゝと故人の前にあさましい姿をさらせようか。且つ又、自分が姿を現せば、必ず君に畏怖嫌厭の情を起させるに決つてゐるからだ。
しかし、今、圖らずも故人に遇ふことを得て、愧赧[きたん]の念をも忘れる程に懷かしい。どうか、ほんの暫くでいいから、我が醜惡な今の外形を厭はず、曾て君の友李徴であつた此の自分と話を交して呉れないだらうか。


10:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 04:59:53.54 ID:5oT5hL03d

後で考へれば不思議だつたが、其の時、袁傪は、この超自然の怪異を、實に素直に受容れて、少しも怪まうとしなかつた。彼は部下に命じて行列の進行を停め、自分は叢の傍に立つて、見えざる聲と對談した。
都の噂、舊友の消息、袁傪が現在の地位、それに對する李徴の祝辭。青年時代に親しかつた者同志の、あの隔てのない語調で、それ等が語られた後、袁傪は、李徴がどうして今の身となるに至つたかを訊ねた。草中の聲は次のやうに語つた。


11:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:00:43.92 ID:5oT5hL03d

今から一年程前、自分が旅に出て汝水のほとりに泊つた夜のこと、一睡してから、ふと眼を覺ますと、戸外で誰かが我が名を呼んでゐる。
聲に應じて外へ出て見ると、聲は闇の中から頻りに自分を招く。
覺えず、自分は聲を追うて走り出した。
無我夢中で駈けて行く中に、何時しか途は山林に入り、しかも、知らぬ間に自分は左右の手で地を攫んで走つてゐた。何か身體中に力が充ち滿ちたやうな感じで、輕々と岩石を跳び越えて行つた。
氣が付くと、手先や肱のあたりに毛を生じてゐるらしい。


12:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:00:50.78 ID:VpQwbDCy0

文字の霊れいなどというものが、一体、あるものか、どうか。アッシリヤ人は無数の精霊を知っている。夜、闇やみの中を跳梁ちょうりょうするリル、その雌めすのリリツ、疫病えきびょうをふり撒まくナムタル、死者の霊


13:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:01:00.10 ID:VpQwbDCy0

エティンム、誘拐者ゆうかいしゃラバス等など、数知れぬ悪霊あくりょう共がアッシリヤの空に充みち満ちている。しかし、文字の精霊については、まだ誰だれも聞いたことがない。その頃ころ――というのは、アシュル・


14:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:01:11.91 ID:VpQwbDCy0

バニ・アパル大王の治世第二十年目の頃だが――ニネヴェの宮廷きゅうていに妙みょうな噂うわさがあった。毎夜、図書館の闇の中で、ひそひそと怪あやしい話し声がするという。王兄シャマシュ・シュム・ウキンの謀叛む


15:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:01:23.87 ID:VpQwbDCy0

ほんがバビロンの落城でようやく鎮しずまったばかりのこととて、何かまた、不逞ふていの徒の陰謀いんぼうではないかと探ってみたが、それらしい様子もない。どうしても何かの精霊どもの話し声に違ちがいない。最近に


16:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:01:35.69 ID:VpQwbDCy0

王の前で処刑しょけいされたバビロンからの俘囚ふしゅう共の死霊の声だろうという者もあったが、それが本当でないことは誰にも判わかる。千に余るバビロンの俘囚はことごとく舌を抜ぬいて殺され、その舌を集めたとこ


17:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:01:47.59 ID:VpQwbDCy0

ろ、小さな築山つきやまが出来たのは、誰知らぬ者のない事実である。舌の無い死霊に、しゃべれる訳がない。星占ほしうらないや羊肝卜ようかんぼくで空むなしく探索たんさくした後、これはどうしても書物共あるいは文


18:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:01:51.23 ID:5oT5hL03d

少し明るくなつてから、谷川に臨んで姿を映して見ると、既に虎となつてゐた。
自分は初め眼を信じなかつた。
次に、之は夢に違ひないと考へた。夢の中で、之は夢だぞと知つてゐるやうな夢を、自分はそれ迄に見たことがあつたから。
どうしても夢でないと悟らねばならなかつた時、自分は茫然とした。さうして、懼れた。全く、どんな事でも起り得るのだと思うて、深く懼れた。
しかし、何故こんな事になつたのだらう。分らぬ。全く何事も我々には判らぬ。理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取つて、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。
自分は直ぐに死を想うた。しかし、其の時、眼の前を一匹の兎が駈け過ぎるのを見た途端に、自分の中の人間は忽ち姿を消した。
再び自分の中の人間が目を覺ました時、自分の口は兎の血に塗れ、あたりには兎の毛が散らばつてゐた。之が虎としての最初の經驗であつた。



19:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:01:59.39 ID:VpQwbDCy0

字共の話し声と考えるより外はなくなった。ただ、文字の霊(というものが在るとして)とはいかなる性質をもつものか、それが皆目かいもく判らない。アシュル・バニ・アパル大王は巨眼縮髪きょがんしゅくはつの老博士


20:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:02:11.29 ID:VpQwbDCy0

ナブ・アヘ・エリバを召めして、この未知の精霊についての研究を命じたもうた。その日以来、ナブ・アヘ・エリバ博士は、日ごと問題の図書館(それは、その後二百年にして地下に埋没まいぼつし、更さらに二千三百年に


21:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:02:23.08 ID:VpQwbDCy0

して偶然ぐうぜん発掘はっくつされる運命をもつものであるが)に通って万巻の書に目をさらしつつ研鑽けんさんに耽ふけった。両河地方メソポタミヤでは埃及エジプトと違って紙草パピルスを産しない。人々は、粘土ねん


22:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:02:34.93 ID:VpQwbDCy0

どの板に硬筆こうひつをもって複雑な楔形くさびがたの符号ふごうを彫ほりつけておった。書物は瓦かわらであり、図書館は瀬戸物屋せとものやの倉庫に似ていた。老博士の卓子テーブル(その脚あしには、本物の獅子しし


23:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:02:46.88 ID:VpQwbDCy0

の足が、爪つめさえそのままに使われている)の上には、毎日、累々るいるいたる瓦の山がうずたかく積まれた。それら重量ある古知識の中から、彼かれは、文字の霊についての説を見出みいだそうとしたが、無駄むだであ


24:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:02:47.29 ID:5oT5hL03d

それ以來今迄にどんな所行をし續けて來たか、それは到底語るに忍びない。
ただ、一日の中に必ず數時間は、人間の心が還つて來る。さういふ時には、曾ての日と同じく、人語も操れれば、複雜な思考にも堪へ得るし、經書の章句をも誦ずることも出來る。
その人間の心で、虎としての己の殘虐な行のあとを見、己の運命をふりかへる時が、最も情なく、恐しく、憤ろしい。
しかし、その、人間にかへる數時間も、日を經るに從つて次第に短くなつて行く。今迄は、どうして虎などになつたかと怪しんでゐたのに、此の間ひよいと氣が付いて見たら、己れはどうして以前、人間だつたのかと考へてゐた。


25:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:02:58.72 ID:VpQwbDCy0

った。文字はボルシッパなるナブウの神の司つかさどりたもう所とより外ほかには何事も記されていないのである。文字に霊ありや無しやを、彼は自力で解決せねばならぬ。博士は書物を離はなれ、ただ一つの文字を前に、


26:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:03:10.53 ID:VpQwbDCy0

終日それと睨にらめっこをして過した。卜者ぼくしゃは羊の肝臓かんぞうを凝視ぎょうしすることによってすべての事象を直観する。彼もこれに倣ならって凝視と静観とによって真実を見出そうとしたのである。その中うち


27:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:03:22.42 ID:VpQwbDCy0

に、おかしな事が起った。一つの文字を長く見詰みつめている中に、いつしかその文字が解体して、意味の無い一つ一つの線の交錯こうさくとしか見えなくなって来る。単なる線の集りが、なぜ、そういう音とそういう意味


28:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:03:31.87 ID:5oT5hL03d

之は恐しいことだ。
今少し經てば、己れの中の人間の心は、獸としての習慣の中にすつかり埋れて消えて了ふだらう。恰度、古い宮殿の礎が次第に土砂に埋沒するやうに。
さうすれば、しまひに己れは自分の過去を忘れ果て、一匹の虎として狂ひ廻り、今日の樣に途で君と出會つても故人と認めることなく、君を裂き喰うて何の悔も感じないだらう。
一體、獸でも人間でも、もとは何か他のものだつたんだらう。初めはそれを憶えてゐたが、次第に忘れて了ひ、初めから今の形のものだつたと思ひ込んでゐるのではないか?
いや、そんな事はどうでもいい。
己れの中の人間の心がすつかり消えて了へば、恐らく、その方が、己れはしあはせになれるだらう。だのに、己れの中の人間は、その事を、此の上なく恐しく感じてゐるのだ。
ああ、全く、どんなに、恐しく、哀しく、切なく思つてゐるだらう! 己れが人間だつた記憶のなくなることを。この氣持は誰にも分らない。誰にも分らない。己れと同じ身の上に成つた者でなければ。
所で、さうだ。己れがすつかり人間でなくなつて了ふ前に、一つ頼んで置き度いことがある。


29:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:03:34.39 ID:VpQwbDCy0

とを有もつことが出来るのか、どうしても解わからなくなって来る。老儒ろうじゅナブ・アヘ・エリバは、生れて初めてこの不思議な事実を発見して、驚おどろいた。今まで七十年の間当然と思って看過していたことが、決


30:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:03:46.43 ID:VpQwbDCy0

して当然でも必然でもない。彼は眼めから鱗こけらの落ちた思がした。単なるバラバラの線に、一定の音と一定の意味とを有たせるものは、何か? ここまで思い到いたった時、老博士は躊躇ちゅうちょなく、文字の霊の存


31:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:03:57.68 ID:5oT5hL03d

袁傪はじめ一行は、息をのんで、叢中の聲の語る不思議に聞入つてゐた。聲は續けて言ふ。
他でもない。自分は元來詩人として名を成す積りでゐた。しかも、業未だ成らざるに、この運命に立至つた。曾て作る所の詩數百篇、固より、まだ世に行はれてをらぬ。遺稿の所在も最早判らなくなつてゐよう。
所で、その中、今も尚記誦せるものが數十ある。之を我が爲に傳録して戴き度いのだ。
何も、之に仍つて一人前の詩人面をしたいのではない。作の巧拙は知らず、とにかく、産を破り心を狂はせて迄自分が生涯それに執著した所のものを、一部なりとも後代に傳へないでは、死んでも死に切れないのだ。


32:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:03:58.29 ID:VpQwbDCy0

在を認めた。魂たましいによって統べられない手・脚・頭・爪・腹等が、人間ではないように、一つの霊がこれを統べるのでなくて、どうして単なる線の集合が、音と意味とを有つことが出来ようか。この発見を手始めに、


33:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:04:05.63 ID:o/tiAbs40

もう夜は明けてるぞ


34:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:04:10.27 ID:VpQwbDCy0

今まで知られなかった文字の霊の性質が次第に少しずつ判って来た。文字の精霊の数は、地上の事物の数ほど多い、文字の精は野鼠のねずみのように仔こを産んで殖ふえる。ナブ・アヘ・エリバはニネヴェの街中を歩き廻ま



35:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:04:12.77 ID:5oT5hL03d

袁傪は部下に命じ、筆を執つて叢中の聲に隨つて書きとらせた。李徴の聲は叢の中から朗々と響いた。長短凡そ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、一讀して作者の才の非凡を思はせるものばかりである。
しかし、袁傪は感嘆しながらも漠然と次の樣に感じてゐた。成程、作者の素質が第一流に屬するものであることは疑ひない。しかし、この儘では、第一流の作品となるのには、何處か(非常に微妙な點に於て)缺ける所があるのではないか、と。


36:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:04:22.13 ID:VpQwbDCy0

わって、最近に文字を覚えた人々をつかまえては、根気よく一々尋たずねた。文字を知る以前に比べて、何か変ったようなところはないかと。これによって文字の霊の人間に対する作用はたらきを明らかにしようというので


37:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:04:32.47 ID:AaPVH0V00

今日も見れたわ


38:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:04:33.94 ID:VpQwbDCy0

ある。さて、こうして、おかしな統計が出来上った。それによれば、文字を覚えてから急に蝨しらみを捕とるのが下手へたになった者、眼に埃ほこりが余計はいるようになった者、今まで良く見えた空の鷲わしの姿が見えな


39:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:04:34.63 ID:KphDhuEY0

何かガチの奴現れてて草


56:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:06:59.42 ID:5oT5hL03d

>>39
この『文字禍』もおもろいで
文章の区切りがあれなだけで新字体の文やし読みやすいと思う


108:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:15:06.08 ID:VpQwbDCy0

>>39
文字禍や
なんJにピッタリやろ


40:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:04:44.71 ID:5oT5hL03d

舊詩を吐き終つた李徴の聲は、突然調子を變へ、自らを嘲るが如くに言つた。
羞しいことだが、今でも、こんなあさましい身と成り果てた今でも、己れは、己れの詩集が長安風流人士の机の上に置かれてゐる樣を、夢に見ることがあるのだ。岩窟の中に横たはつて見る夢にだよ。嗤つて呉れ。詩人に成りそこなつて虎になつた哀れな男を。
(袁傪は昔の青年李徴の自嘲癖を思出しながら、哀しく聞いてゐた。)
さうだ。お笑ひ草ついでに、今の懷を即席の詩に述べて見ようか。この虎の中に、まだ、曾ての李徴が生きてゐるしるしに。


41:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:04:45.78 ID:VpQwbDCy0

くなった者、空の色が以前ほど碧あおくなくなったという者などが、圧倒的あっとうてきに多い。「文字ノ精ガ人間ノ眼ヲ喰くイアラスコト、猶なお、蛆虫うじむしガ胡桃くるみノ固キ殻からヲ穿うがチテ、中ノ実ヲ巧たく


42:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:04:57.75 ID:VpQwbDCy0

みニ喰イツクスガ如ごとシ」と、ナブ・アヘ・エリバは、新しい粘土の備忘録に誌しるした。文字を覚えて以来、咳せきが出始めたという者、くしゃみが出るようになって困るという者、しゃっくりが度々出るようになった


43:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:05:00.32 ID:5oT5hL03d

袁傪は又下吏に命じて之を書きとらせた。その詩に言ふ。
偶因狂疾成殊類 災患相仍不可逃
今日爪牙誰敢敵 當時聲跡共相高
我爲異物蓬茅下 君已乘軺氣勢豪
此夕溪山對明月 不成長嘯但成嘷


44:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:05:09.48 ID:VpQwbDCy0

者、下痢げりするようになった者なども、かなりの数に上る。「文字ノ精ハ人間ノ鼻・咽喉のど・腹等ヲモ犯スモノノ如シ」と、老博士はまた誌した。文字を覚えてから、にわかに頭髪の薄うすくなった者もいる。脚の弱く


45:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:05:21.19 ID:VpQwbDCy0

なった者、手足の顫ふるえるようになった者、顎あごがはずれ易やすくなった者もいる。しかし、ナブ・アヘ・エリバは最後にこう書かねばならなかった。「文字ノ害タル、人間ノ頭脳ヲ犯シ、精神ヲ痲痺まひセシムルニ至


46:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:05:32.96 ID:VpQwbDCy0

ッテ、スナワチ極マル。」文字を覚える以前に比べて、職人は腕うでが鈍にぶり、戦士は臆病おくびょうになり、猟師りょうしは獅子を射損うことが多くなった。これは統計の明らかに示す所である。文字に親しむようにな


47:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:05:44.75 ID:VpQwbDCy0

ってから、女を抱だいても一向楽しゅうなくなったという訴うったえもあった。もっとも、こう言出したのは、七十歳さいを越こした老人であるから、これは文字のせいではないかも知れぬ。ナブ・アヘ・エリバはこう考え


48:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:05:48.60 ID:XJIKkZGG0

もしかして毎日おるんか



49:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:05:55.65 ID:5oT5hL03d

時に、殘月、光冷やかに、白露は地に滋く、樹間を渡る冷風は既に曉の近きを告げてゐた。人々は最早、事の奇異を忘れ、肅然として、この詩人の薄倖を嘆じた。李徴の聲は再び續ける。
何故こんな運命になつたか判らぬと、先刻は言つたが、しかし、考へやうに依れば、思ひ當ることが全然ないでもない。
人間であつた時、己れは努めて人との交を避けた。人々は己れを倨傲だ、尊大だといつた。實は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかつた。
勿論、曾ての郷黨の秀才だつた自分に、自尊心が無かつたとは云はない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいふべきものであつた。


50:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:05:56.56 ID:VpQwbDCy0

た。埃及人は、ある物の影かげを、その物の魂の一部と見做みなしているようだが、文字は、その影のようなものではないのか。獅子という字は、本物の獅子の影ではないのか。それで、獅子という字を覚えた猟師は、本物


51:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:06:08.34 ID:VpQwbDCy0

の獅子の代りに獅子の影を狙ねらい、女という字を覚えた男は、本物の女の代りに女の影を抱くようになるのではないか。文字の無かった昔むかし、ピル・ナピシュチムの洪水こうずい以前には、歓よろこびも智慧ちえもみ


52:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:06:20.15 ID:VpQwbDCy0

んな直接に人間の中にはいって来た。今は、文字の薄被ヴェイルをかぶった歓びの影と智慧の影としか、我々は知らない。近頃人々は物憶ものおぼえが悪くなった。これも文字の精の悪戯いたずらである。人々は、もはや、


53:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:06:32.06 ID:VpQwbDCy0

書きとめておかなければ、何一つ憶えることが出来ない。着物を着るようになって、人間の皮膚ひふが弱く醜みにくくなった。乗物が発明されて、人間の脚が弱く醜くなった。文字が普及ふきゅうして、人々の頭は、もはや


54:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:06:43.72 ID:VpQwbDCy0

、働かなくなったのである。ナブ・アヘ・エリバは、ある書物狂きょうの老人を知っている。その老人は、博学なナブ・アヘ・エリバよりも更に博学である。彼は、スメリヤ語やアラメヤ語ばかりでなく、紙草パピルスや羊


55:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:06:55.35 ID:VpQwbDCy0

皮紙に誌された埃及文字まですらすらと読む。およそ文字になった古代のことで、彼の知らぬことはない。彼はツクルチ・ニニブ一世王の治世第何年目の何月何日の天候まで知っている。しかし、今日きょうの天気は晴か曇


57:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:07:04.30 ID:04VhZkG/0

国文学科なのに山月記読んだことないわ


58:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:07:07.12 ID:VpQwbDCy0

くもりか気が付かない。彼は、少女サビツがギルガメシュを慰なぐさめた言葉をも諳そらんじている。しかし、息子むすこをなくした隣人りんじんを何と言って慰めてよいか、知らない。彼は、アダッド・ニラリ王の后きさ


59:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:07:18.78 ID:VpQwbDCy0

き、サンムラマットがどんな衣装いしょうを好んだかも知っている。しかし、彼自身が今どんな衣服を着ているか、まるで気が付いていない。何と彼は文字と書物とを愛したであろう! 読み、諳んじ、愛撫あいぶするだけ


60:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:07:30.59 ID:VpQwbDCy0

ではあきたらず、それを愛するの余りに、彼は、ギルガメシュ伝説の最古版の粘土板を噛砕かみくだき、水に溶とかして飲んでしまったことがある。文字の精は彼の眼を容赦ようしゃなく喰い荒あらし、彼は、ひどい近眼で


61:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:07:35.56 ID:5oT5hL03d

己れは詩によつて名を成さうと思ひながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交つて切磋琢磨に努めたりすることをしなかつた。
かといつて、又、己れは俗物の間に伍することも潔しとしなかつた。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所爲である。
己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨かうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出來なかつた。
己れは次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによつて益々己の内なる臆病な自尊心を飼ひふとらせる結果になつた。


62:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:07:42.25 ID:VpQwbDCy0

ある。余り眼を近づけて書物ばかり読んでいるので、彼の鷲形の鼻の先は、粘土板と擦すれ合って固い胼胝たこが出来ている。文字の精は、また、彼の脊骨せぼねをも蝕むしばみ、彼は、臍へそに顎のくっつきそうな傴僂せ


63:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:07:53.95 ID:VpQwbDCy0

むしである。しかし、彼は、恐おそらく自分が傴僂であることを知らないであろう。傴僂という字なら、彼は、五つの異った国の字で書くことが出来るのだが。ナブ・アヘ・エリバ博士は、この男を、文字の精霊の犠牲者ぎ


64:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:08:05.64 ID:VpQwbDCy0

せいしゃの第一に数えた。ただ、こうした外観の惨みじめさにもかかわらず、この老人は、実に――全く羨うらやましいほど――いつも幸福そうに見える。これが不審ふしんといえば、不審だったが、ナブ・アヘ・エリバは


65:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:08:17.34 ID:VpQwbDCy0

、それも文字の霊の媚薬びやくのごとき奸猾かんかつな魔力まりょくのせいと見做した。たまたまアシュル・バニ・アパル大王が病に罹かかられた。侍医じいのアラッド・ナナは、この病軽からずと見て、大王のご衣裳を借



66:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:08:22.23 ID:5oT5hL03d

人間は誰でも猛獸使であり、その猛獸に當るのが、各人の性情だといふ。
己れの場合、この尊大な羞恥心が猛獸だつた。虎だつたのだ。之が己を損ひ、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形を斯くの如く、内心にふさはしいものに變へて了つたのだ。
今思へば、全く、己れは、己れの有つてゐた僅かばかりの才能を空費して了つた譯だ。
人生は何事をも爲さぬには餘りに長いが、何事かを爲すには餘りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事實は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭ふ怠惰とが己れの凡てだつたのだ。
己れよりも遙かに乏しい才能でありながら、それを專一に磨いたがために、堂々たる詩家となつた者が幾らでもゐるのだ。
虎と成り果てた今、己れは漸くそれに氣が付いた。それを思ふと、己れは今も胸を灼かれるやうな悔を感じる。


67:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:08:28.99 ID:VpQwbDCy0

り、自らこれをまとうて、アッシリヤ王に扮ふんした。これによって、死神エレシュキガルの眼を欺あざむき、病を大王から己おのれの身に転じようというのである。この古来の医家の常法に対して、青年の一部には、不信


68:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:08:40.61 ID:VpQwbDCy0

の眼を向ける者がある。これは明らかに不合理だ、エレシュキガル神ともあろうものが、あんな子供瞞だましの計に欺かれるはずがあるか、と、彼等らは言う。碩学せきがくナブ・アヘ・エリバはこれを聞いて厭いやな顔を


70:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:08:52.33 ID:VpQwbDCy0

した。青年等のごとく、何事にも辻褄つじつまを合せたがることの中には、何かしらおかしな所がある。全身垢あかまみれの男が、一ヶ所だけ、例えば足の爪先だけ、無闇に美しく飾かざっているような、そういうおかしな


71:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:08:57.27 ID:5oT5hL03d

己れには最早人間としての生活は出來ない。
たとへ、今、己れが頭の中で、どんな優れた詩を作つたにした所で、どういふ手段で發表できよう。
まして、己れの頭は日毎に虎に近づいて行く。どうすればいいのだ。
己れの空費された過去は? 己れは堪らなくなる。
さういふ時、己れは、向うの山の頂の巖に上り、空谷に向つて吼える。この胸を灼く悲しみを誰かに訴へたいのだ。


72:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:09:04.01 ID:VpQwbDCy0

所が。彼等は、神秘の雲の中における人間の地位をわきまえぬのじゃ。老博士は浅薄せんぱくな合理主義を一種の病と考えた。そして、その病をはやらせたものは、疑もなく、文字の精霊である。ある日若い歴史家(あるい


73:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:09:15.79 ID:VpQwbDCy0

は宮廷の記録係)のイシュデイ・ナブが訪ねて来て老博士に言った。歴史とは何ぞや? と。老博士が呆あきれた顔をしているのを見て、若い歴史家は説明を加えた。先頃のバビロン王シャマシュ・シュム・ウキンの最期さ


74:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:09:20.06 ID:QZgZ+Bxd0

ここまでまはいらない


75:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:09:27.76 ID:VpQwbDCy0

いごについて色々な説がある。自ら火に投じたことだけは確かだが、最後の一月ひとつきほどの間、絶望の余り、言語に絶した淫蕩いんとうの生活を送ったというものもあれば、毎日ひたすら潔斎けっさいしてシャマシュ神


76:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:09:39.52 ID:VpQwbDCy0

に祈いのり続けたというものもある。第一の妃ひただ一人と共に火に入ったという説もあれば、数百の婢妾ひしょうを薪まきの火に投じてから自分も火に入ったという説もある。何しろ文字通り煙けむりになったこととて、


77:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:09:44.28 ID:5oT5hL03d

己れは昨夕も、彼處で月に向つて咆えた。誰かに此の苦しみが分つて貰へないかと。
しかし、獸どもは己れの聲を聞いて、唯、懼れ、ひれ伏すばかり。
山も樹も月も露も、一匹の虎が怒り狂つて、哮つてゐるとしか考へない。天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人己れの氣持を分つて呉れる者はない。
恰度、人間だつた頃、己れの傷つき易い内心を誰も理解して呉れなかつたやうに。己れの毛皮の濡れたのは、夜露のためばかりではない。


78:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:09:51.35 ID:VpQwbDCy0

どれが正しいのか一向見当がつかない。近々、大王はそれらの中の一つを選んで、自分にそれを記録するよう命じたもうであろう。これはほんの一例だが、歴史とはこれでいいのであろうか。賢明けんめいな老博士が賢明な


79:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:10:03.29 ID:VpQwbDCy0

沈黙ちんもくを守っているのを見て、若い歴史家は、次のような形に問を変えた。歴史とは、昔、在った事柄ことがらをいうのであろうか? それとも、粘土板の文字をいうのであろうか?獅子狩がりと、獅子狩の浮彫うき


80:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:10:15.12 ID:VpQwbDCy0

ぼりとを混同しているような所がこの問の中にある。博士はそれを感じたが、はっきり口で言えないので、次のように答えた。歴史とは、昔在った事柄で、かつ粘土板に誌しるされたものである。この二つは同じことではな


81:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:10:24.77 ID:5oT5hL03d

漸く四邊[あたり]の暗さが薄らいで來た。木の間を傳つて、何處からか、曉角が哀しげに響き始めた。
最早、別れを告げねばならぬ。醉はねばならぬ時が、(虎に還らねばならぬ時が)近づいたから、と、李徴の聲が言つた。だが、お別れする前にもう一つ頼みがある。それは我が妻子のことだ。
彼等は未だ虢略にゐる。固より、己れの運命に就いては知る筈がない。君が南から歸つたら、己れは既に死んだと彼等に告げて貰へないだらうか。決して今日のことだけは明かさないで欲しい。
厚かましいお願だが、彼等の孤弱を憐れんで、今後とも道塗に飢凍することのないやうにはからつて戴けるならば、自分にとつて、恩倖、之に過ぎたるは莫い。


82:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:10:26.87 ID:VpQwbDCy0

いか。書洩かきもらしは? と歴史家が聞く。書洩らし? 冗談じょうだんではない、書かれなかった事は、無かった事じゃ。芽の出ぬ種子たねは、結局初めから無かったのじゃわい。歴史とはな、この粘土板のことじゃ。



83:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:10:38.67 ID:VpQwbDCy0

若い歴史家は情なさそうな顔をして、指し示された瓦を見た。それはこの国最大の歴史家ナブ・シャリム・シュヌ誌す所のサルゴン王ハルディア征討行せいとうこうの一枚である。話しながら博士の吐はき棄すてた柘榴ざく


84:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:10:50.61 ID:VpQwbDCy0

ろの種子がその表面に汚きたならしくくっついている。ボルシッパなる明智の神ナブウの召使めしつかいたもう文字の精霊共の恐おそろしい力を、イシュディ・ナブよ、君はまだ知らぬとみえるな。文字の精共が、一度ある


85:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:11:02.54 ID:VpQwbDCy0

事柄を捉とらえて、これを己の姿で現すとなると、その事柄はもはや、不滅ふめつの生命を得るのじゃ。反対に、文字の精の力ある手に触ふれなかったものは、いかなるものも、その存在を失わねばならぬ。太古以来のアヌ


86:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:11:14.37 ID:VpQwbDCy0

・エンリルの書に書上げられていない星は、なにゆえに存在せぬか? それは、彼等がアヌ・エンリルの書に文字として載のせられなかったからじゃ。大マルズック星(木星)が天界の牧羊者(オリオン)の境を犯せば神々


87:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:11:15.18 ID:5oT5hL03d

言終つて、叢中から慟哭の聲が聞えた。袁傪も亦涙を泛べ、欣んで李徴の意に副ひ度い旨を答へた。李徴の聲は併し忽ち又先刻の自嘲的な調子に戻つて、言つた。
本當は、先づ、この事の方を先にお願ひすべきだつたのだ、己れが人間だつたなら。飢ゑ凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業の方を氣にかけてゐる樣な男だから、こんな獸に身を墮すのだ。
さうして、附加へて言ふことに、袁傪が嶺南からの歸途には決して此の途を通らないで欲しい、其の時には自分が醉つてゐて故人を認めずに襲ひかかるかも知れないから。
又、今別れてから、前方百歩の所にある、あの丘に上つたら、此方を振りかへつて見て貰ひ度い。自分は今の姿をもう一度お目に掛けよう。勇に誇らうとしてではない。我が醜惡な姿を示して、以て、再び此處を過ぎて自分に會はうとの氣持を君に起させない爲であると。


88:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:11:26.26 ID:VpQwbDCy0

の怒いかりが降くだるのも、月輪の上部に蝕しょくが現れればフモオル人が禍を蒙こうむるのも、皆みな、古書に文字として誌されてあればこそじゃ。古代スメリヤ人が馬という獣けものを知らなんだのも、彼等の間に馬と


89:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:11:38.21 ID:VpQwbDCy0

いう字が無かったからじゃ。この文字の精霊の力ほど恐ろしいものは無い。君やわしらが、文字を使って書きものをしとるなどと思ったら大間違い。わしらこそ彼等文字の精霊にこき使われる下僕しもべじゃ。しかし、また


90:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:11:49.87 ID:VpQwbDCy0

、彼等精霊の齎もたらす害も随分ずいぶんひどい。わしは今それについて研究中だが、君が今、歴史を誌した文字に疑を感じるようになったのも、つまりは、君が文字に親しみ過ぎて、その霊の毒気どっきに中あたったため


91:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:12:01.84 ID:VpQwbDCy0

であろう。若い歴史家は妙な顔をして帰って行った。老博士はなおしばらく、文字の霊の害毒があの有為ゆういな青年をも害そこなおうとしていることを悲しんだ。文字に親しみ過ぎてかえって文字に疑を抱くことは、決し


92:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:12:03.67 ID:5oT5hL03d

袁傪は叢に向つて、懇ろに別れの言葉を述べ、馬に上つた。叢の中からは、又、堪へ得ざるが如き悲泣の聲が洩れた。袁傪も幾度か叢を振返りながら、涙の中に出發した。


93:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:12:13.55 ID:VpQwbDCy0

て矛盾むじゅんではない。先日博士は生来の健啖けんたんに任せて羊の炙肉あぶりにくをほとんど一頭分も平らげたが、その後当分、生きた羊の顔を見るのも厭になったことがある。青年歴史家が帰ってからしばらくして、


94:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:12:25.55 ID:VpQwbDCy0

ふと、ナブ・アヘ・エリバは、薄くなった縮ちぢれっ毛の頭を抑おさえて考え込こんだ。今日は、どうやら、わしは、あの青年に向って、文字の霊の威力いりょくを讃美さんびしはせなんだか? いまいましいことだ、と彼


95:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:12:25.98 ID:5oT5hL03d

一行が丘の上についた時、彼等は、言はれた通りに振返つて、先程の林間の草地を眺めた。
忽ち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼等は見た。
虎は、既に白く光を失つた月を仰いで、二聲三聲咆哮したかと思ふと、又、元の叢に躍り入つて、再び其の姿を見なかつた。


96:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:12:37.43 ID:VpQwbDCy0

は舌打をした。わしまでが文字の霊にたぶらかされておるわ。実際、もう大分前から、文字の霊がある恐しい病を老博士の上に齎していたのである。それは彼が文字の霊の存在を確かめるために、一つの字を幾日もじっと睨


97:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:12:49.27 ID:VpQwbDCy0

み暮くらした時以来のことである。その時、今まで一定の意味と音とを有もっていたはずの字が、忽然こつぜんと分解して、単なる直線どもの集りになってしまったことは前に言った通りだが、それ以来、それと同じような


98:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:13:01.12 ID:VpQwbDCy0

現象が、文字以外のあらゆるものについても起るようになった。彼が一軒けんの家をじっと見ている中に、その家は、彼の眼と頭の中で、木材と石と煉瓦れんがと漆喰しっくいとの意味もない集合に化けてしまう。これがど



99:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:13:12.90 ID:VpQwbDCy0

うして人間の住む所でなければならぬか、判らなくなる。人間の身体からだを見ても、その通り。みんな意味の無い奇怪きかいな形をした部分部分に分析ぶんせきされてしまう。どうして、こんな恰好かっこうをしたものが


100:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:13:24.67 ID:VpQwbDCy0

、人間として通っているのか、まるで理解できなくなる。眼に見えるものばかりではない。人間の日常の営み、すべての習慣が、同じ奇体な分析病のために、全然今までの意味を失ってしまった。もはや、人間生活のすべて


101:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:13:36.47 ID:VpQwbDCy0

の根柢こんていが疑わしいものに見える。ナブ・アヘ・エリバ博士は気が違いそうになって来た。文字の霊の研究をこれ以上続けては、しまいにその霊のために生命をとられてしまうぞと思った。彼は怖こわくなって、早々


103:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:14:00.06 ID:VpQwbDCy0

しまった。しかも、これに気付いている者はほとんど無い。今にして文字への盲目的崇拝もうもくてきすうはいを改めずんば、後に臍ほぞを噬かむとも及およばぬであろう云々うんぬん。文字の霊が、この讒謗者ざんぼうし


105:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:14:11.96 ID:VpQwbDCy0

ゃをただで置く訳が無い。ナブ・アヘ・エリバの報告は、いたく大王のご機嫌きげんを損じた。ナブウ神の熱烈ねつれつな讃仰者さんぎょうしゃで当時第一流の文化人たる大王にしてみれば、これは当然のことである。老博


106:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:14:15.38 ID:5oT5hL03d

(昭和17年2月發表)


107:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:14:37.50 ID:5oT5hL03d

がんばれあと少しや


109:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:15:43.42 ID:5oT5hL03d

士は即日そくじつ謹慎きんしんを命ぜられた。大王の幼時からの師傅しふたるナブ・アヘ・エリバでなかったら、恐らく、生きながらの皮剥かわはぎに処せられたであろう。
思わぬご不興に愕然がくぜんとした博士は、直ちに、これが奸譎かんけつな文字の霊の復讐ふくしゅうであることを悟さとった。
しかし、まだこれだけではなかった。数日後ニネヴェ・アルベラの地方を襲おそった大地震だいじしんの時、博士は、たまたま自家の書庫の中にいた。
彼の家は古かったので、壁かべが崩くずれ書架しょかが倒たおれた。夥しい書籍が――数百枚の重い粘土板が、文字共の凄すさまじい呪のろいの声と共にこの讒謗者の上に落ちかかり、彼は無慙むざんにも圧死した。


110:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:16:06.21 ID:5oT5hL03d

(昭和十七年二月)


111:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:17:16.77 ID:5oT5hL03d

『ナポレオン』 中島敦


112:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:17:35.19 ID:5oT5hL03d

「ナポレオンを召捕りに行くのですよ」と若い警官が私に言つた。パラオ南方離島通ひの小汽船、國光丸の甲板の上である。
「ナポレオン?」
「ええ、ナポレオンですよ」と若い警察官は私の驚きを期待してゐたやうに笑ひながら言つた。「ナポレオンといつても、島民ですがね。島民の子供の名前です。」


113:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:18:03.67 ID:5oT5hL03d

島民には隨分變つた名前が色々とある。昔は基督教の宣教師に命名して貰ふことが多かつたので、マリヤとかフランシスなどといふのが多く、又、以前獨逸領だつた關係からビスマルクなどといふのも時にあつたが、ナポレオンは珍しい。
しかし、私の知つてゐる他の島民の名前、シチガツ(七月に生れたのであらう)、ココロ(心?)、ハミガキ等に比べれば、何といつても堂々たる名前には違ひない。もつとも、その餘り堂々とし過ぎてゐる點が可笑しいのには違ひないが。
甲板に張られたカンワ ゙スの日覆の下で、私は色の黒い不良少年、ナポレオンの話を聞いた。


114:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:18:14.68 ID:VpQwbDCy0

途中でスクリプト止めてもたわ


115:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:18:42.16 ID:5oT5hL03d

ナポレオンは二年前迄コロールの街にゐたのだが、公學校三年生の時、年下の女の兒にひどく惡性の嗜虐症的な惡戲をして、其の兒を殆ど死に瀕せしめたといふ。
其の他之に類する事件を二つ三つ引起し、更に竊盜なども働いたらしく、一昨年十三歳の時に、未成年者への罰として、コロールから遙か離れた南方のS島へ流されたのである。
名目上はパラオ諸島に屬してゐるものの、之等南方離島は地質的にも全然別の島だし、住民もずつと東方の中央カロリン系のものなので、言語習慣もパラオとはまるで變つてゐる。
流石の惡少年ナポレオンも最初は大分閉口したらしいが、環境に適應する(といふより之を克服する)不思議な才能を備へてゐると見え、半年も經たぬ間に、S島でももてあます跳梁ぶりを示し始めた。


116:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:19:21.52 ID:5oT5hL03d

島の少年共を脅迫したり、娘や人妻に怪しからぬ振舞をして困るからとの陳情が、島の村長から大分前にパラオ支廳の方へ來てゐるといふ。
そんな惡少年は島の内で制裁すればいいと思はれるのに、それがどうして、島の成人[おとな]達が逆に怯えてゐる有樣なのださうだ。
S島は人口も極めて少く、それも年々減少しつゝある、謂はば廢島に近い島なのだが、僅か十五六歳の少年一人を抑へかねる程、住民等も元氣が無いのであらうか。


117:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:20:02.98 ID:5oT5hL03d

私と今話してゐる警察官がナポレオンを召捕りに來たのは、此の少年に改悛の情無しと見たパラオ支廳の警務課が、彼の流刑の期間を延長し、その上流竄地をS島よりも更に南方遙か隔たつたT島に變更することに決めたためである。
警官は、此の用件と、もう一つ僻遠諸離島の人頭税取立てとを兼ねて、一人の島民巡警を引連れ、内地人の乘ることなど殆ど無い・そして年に僅か三囘位しか通はない此の離島航路の小船に乘つたのであつた。



118:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:20:11.55 ID:CA3f4KGq0

はえー
山月記と同じうp主なんや


119:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:20:54.55 ID:5oT5hL03d

「ナポレオン先生、大人しく此の船に乘せられて、T島に移りますかな?」と私が言ふと、「なあに、いくら惡[わる]だと云つたつて、たかが島民の子供ぢやないですか。問題ぢやない」と警官がむきになつて答へた。
其の聲に、今迄の會話の調子と違つて、意外にも若干の憤激の調子が感じられ、ああ、私の今の言葉は島民の前には絶對權威をもつ警官への多少の侮蔑に當るのかも知れぬと氣が付いた。


120:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:21:44.15 ID:5oT5hL03d

S島がナポレオンの存在に困るからとて、T島にやつたのでは、同じ樣な無氣力者の寄合に違ひないT島でも矢張この少年に手古摺るに違ひない。
もつと他に何か方法は無いものか。たとへばコロールの街で嚴重な監視の下に勞役に從はせるとか、さういふ風な。
それに、一體、此の流刑といふ古風な刑罰を少年に課してゐるのは、どういふ法律なのだらう? 日本人の籍をもたぬ彼等島民、殊に其の未成年者には、どんな法律が設けられてゐるのだらう?
同じ南洋の官吏でゐながら、まるで方面違ひの、おまけに極く新米の私は、そんな事に全然無知だつたので、少し訊ねて見たかつたのだが、相手の機嫌を幾らか損じたらしい際でもあり、傍にゐる島民巡警への顧慮も手傳つて、それは控へることにした。


121:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:22:00.71 ID:5oT5hL03d

「晝頃にはS島に着くやうなことを船長は言つとつたが、此の間みたいに半日も流されて、行過ぎとるなんてことがあるから、あてにはなりませんなあ。」
警官は話を換へて、そんなことを言ひ、伸びをしながら、眼を海の方に向けた。私も亦それにつられて、何といふこともなく、目を細くして眩しい海と空とを眺めた。


123:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:23:16.93 ID:KkUCwsg0M

李徴から強い猛虎魂を感じる


127:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:26:08.57 ID:5oT5hL03d

>>123
人間は誰しも猛獣使いなんや
藤浪かて心の中に猛獣を飼っとる


124:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:23:35.68 ID:5oT5hL03d

午[ひる]近く、船は珊瑚礁の罅隙の水道を通つて灣に入つた。S島だ。黒き小ナポレオンのゐるといふエルバ島である。
低い・全然丘の無い・小さな珊瑚島だ。緩く半圓を描いた渚の砂は――珊瑚の屑は、餘りにも眞白で眼に痛い。
年老いた椰子樹の列が青い晝の光の中に亭々と聳え立ち、その下に隱見する土人の小舍がひどく低く小さく見える。二三十人の土民男女が濱に出て、眼をしかめたり小手を翳したりしながら、我々の船の方を見てゐる。
潮の關係で、突堤には着けられなかつた。岸から半丁程離れて船が泊ると、迎への獨木舟[カヌー]が三隻水を切つて近寄つた。見事に赤銅色をした逞しい男が、眞赤な褌一つで漕いで來る。近付くと、彼等の耳に黒い耳輪の下つてゐるのが見えた。
「では、行つて來ます」と警官はヘルメットを手に取りながら挨拶し、巡警を從へて甲板から降りて行つた。


125:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:24:28.63 ID:5oT5hL03d

此の島には三時間しか泊らないことになつてゐる。私は上陸しないことにした。ひとへに暑さを恐れたためである。
晝食を下で濟ませてから、又甲板へ上つて來た。外海の濃藍色とは全然違つて、堡礁[リーフ]内の水は、乳に溶かした翡翠だ。
船の影になつた所は、厚い硝子の切斷部のやうな色合に、特に澄み透つて見える。
エンヂェル・フィッシュに似た黒い派手な竪縞[たてじま]のある魚と、さよりの樣な飴色の細い魚とが盛んに泳いでゐるのを見下してゐる中に、眠くなつて來た。
先刻警官の睡つた寢椅子に横になると、直ぐに寢て了つた。


126:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:25:15.63 ID:5oT5hL03d

タラップを上つて來る足音と人聲とに目を醒ますと、もう警官と巡警とが歸つて來てゐた。傍に、褌一つの島民少年を連れてゐる。
「あゝ、これですか。ナポレオンは。」
「ハア」と頷くと、警官は少年を、甲板の隅の索具等の積んである邊へ向けて突き飛ばした。「その邊へしやがんどれ。」
警官の背後[うしろ]から巡警が(二十歳になつたかならない位の、愚鈍さうな若者だ)何か短く少年に言つた。警官の言葉を通譯したのであらう。少年は不貞腐れたやうな一瞥を我々に投げてから、其處にあつた木箱に腰を下し、海の方を向いて了つた。


128:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:27:13.21 ID:5oT5hL03d

島民としては甚だ眼が小さいが、ナポレオン少年の顏は別に醜いといふ譯ではない。さうかと云つて(大抵の邪惡な顏には何處か狡い賢さがあるものだが)惡賢いといふ柄でもない。
賢さなどといふものは全然見られぬ・愚鈍極まる顏でありながら、普通の島民の顏に見られる・あのとぼけたをかしさがまるで無い。意味も目的も無い・まじりけの無い惡意だけがハツキリ其の愚かしい顏に現れてゐる。
先程警官から聞かされた此の少年のコロールでの殘忍な行爲も、成程この顏ならやりさうだと思はれた。
たゞ、豫期に反したのは、其の體躯の小さいことである。
島民は概して二十歳前に成長し切つて了ふので、十五六にもなれば、實に見事な體格をしてゐる者が多い。
殊に性的な犯行をする程早熟な少年ならば、屹度體躯もそれに伴つて充分發達してゐるだらうと思つたのに、これは又、痩せてひねこびた猿のやうな少年である。
斯んな身體の少年が、どうして(未だに家柄の次には腕力が最もものを言ふ筈の)島民の間で衆人を懼れさせることが出來るか、誠に不可思議に思はれた。


129:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:27:57.01 ID:5oT5hL03d

「御苦勞樣でしたな」と私は警官に向つて言つた。
「イヤ。船が珍しいもんだから、野郎、村の者と一緒に濱へ出とつたんで、直ぐつかまへましたよ。しかし、あの男が(と巡警を指して)言ふにはですな、困つたことに」と警官が言つた。
「ナポレオンの野郎、今ではパラオ語をすつかり忘れて了つとるんですと。何をあれに聞かせても通じんのです。しかし、そんな事があるもんでせうかな。僅か二年の間に自分の生れた土地の言葉をみんな忘れて了ふなんてことが。」


130:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:28:39.20 ID:5oT5hL03d

二年間此の島でトラック語ばかり使つてゐたために、ナポレオンはパラオ語を忘れ果てたといふ。
公學校で二年程習つた日本語を忘れたといふのなら、之は解る。併し、生れた時から使つて來たパラオ語迄忘れるとは? 私は首を傾けた。
だが、萬更、有り得ないことではないかも知れんなと思つた。しかし、又一方、警官の訊問を避けるための僞りでないと誰が知らう。「さあね」と私はもう一度首を傾げた。
「わしもね、奴が嘘をついとるんぢやなからうかと大分責めて見たんですがな、やつぱり本當に忘れて了つたらしい所もあるし。」と警官はさう言ひながら額の汗を拭ひ、此方に背中を向けてゐるナポレオンの方を忌々しさうに見遣つた。
「とにかく、不貞腐れた、生意氣な奴ですよ。まだ子供のくせに、こんな強情な野郎は無い。」


131:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:29:27.34 ID:5oT5hL03d

午後三時、愈々出帆だ。ゴトヽヽいふエンヂンの音と共に船體が輕く上下に搖れ出した。
私は警官と甲板の椅子に凭つて(我々二人だけが一等船客だつたので何時も一緒にゐない譯に行かないのである)島の方を見てゐた。
其の時、我々の傍に立つてゐた例の島民巡警が「アレ!」と頓驚な聲を出して、我々の背後を指さした。直ぐ其の方向に振向いた時、私は、今しも白塗の欄干[てすり]を越えて海の上へと躍つた島民少年の後姿を見た。
慌てて我々は欄干の所へ駈け寄つた。既に脱走者は船から七八間離れた渦の中を船尾を廻つて鮮やかに島の方へと泳いでゐた。
「停めろ! 船を停めろ!」と警官が喚いた。「ナポレオンが逃げたぞ。」


132:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:29:59.16 ID:5oT5hL03d

忽ち船の上はごつた返しの騷ぎとなつた。
船尾にゐた二人の島民水夫が其の場から海に跳び込んで脱走者の後を追うた。二人とも二十歳を越えたばかりと思はれる逞しい青年だ。
脱走者と追跡者との距離は見るゝゝ縮まつて行くやうに見えた。濱邊で船を見送つてゐた島の連中も漸く氣が付いたらしく、ナポレオンの泳ぎ着かうとする方角に向つて、白い砂の上をバラヽヽと駈けて行く。


133:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:30:47.92 ID:5oT5hL03d

思ひがけない活劇に、私は欄干に凭つてかたづを呑んだ。之は又、目も醒めるばかり鮮やかな色彩の世界を背景にした南海の捕りものである。
私は餘程嬉しさうな顏をして眺めてゐたに違ひない。「面白いですなあ!」と聲を掛けられて氣が付くと、何時の間にか隣に船長が(どういふ譯か、此の船長は何時見ても多少の酒氣を帶びてゐないことはない)來てゐたのである。
彼も亦のんびりとパイプの煙をふかしながら、映畫でも見るやうに樂しげに海の活劇を見下してゐた。
巧くナポレオンが濱に泳ぎ着いて、さて島内の森の中へでも逃げおほせて呉れればいいと、どうやらそんな事を考へてゐたらしい自分に氣が付いて、私は苦笑した。


134:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:31:09.12 ID:5oT5hL03d

だが、結果は案外あつけなかつた。
結局、汀から二十間ばかりの・丈の立つ所迄來た時、ナポレオンは追ひ付かれた。竝よりも身體の小さい少年一人と、堂々たる體格の青年二人とでは、結果は問ふ迄もない。
少年は二人に兩腕を取られて引立てられ、濱に上つた迄は見えたが、島の連中が忽ち取卷いて了つたので、あとは良く見えなくなつた。



135:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:31:39.49 ID:5oT5hL03d

警官は酷く機嫌を惡くしてゐた。
三十分後、殊勳の二水夫に押へられたナポレオンが再び島のカヌーで船に連れ戻された時、眞先に彼は手酷い平手打を三つ四つ續けざまに喰はせられた。
さて、それから今度は(先刻は繩をつけなかつたのだ)兩手兩足を船の麻繩で縛り上げられた上、隅つこの・島民船員の食料が詰め込んであるらしい椰子バスケットと飮用の皮剥若椰子との間にころがされた。
「畜生。餘計な世話を燒かせやがる!」と警官は、それでも漸く安堵したやうに、さう言つた。


136:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:32:20.84 ID:5oT5hL03d

翌日も完全な上天氣であつた。一日陸を見ずに、船は南へ走つた。
漸く夕方近くなつて、無人島H礁の環礁の中に入つた。無人島に船を寄せるのは、萬一漂流者がありはせぬかを調べる爲だらうと私は思つた。何處かの命令航路の規約にそんな事が書いてあつたのを憶えてゐたからである。
所が實際は、そんな甘い人道的な考へ方からではなかつた。此處での高瀬貝採取權を獨占してゐる南洋貿易會社からの頼みで、密漁者を取締るのが目的なのだといふ。


137:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:33:21.12 ID:5oT5hL03d

甲板の上から見ると、夥しい海鳥の群が此の低い珊瑚礁島を蔽うてゐる。
船員の二三に誘はれ上陸して見て、更に驚いた。岩の陰も木の上も砂の上も、たゞ一面の鳥、鳥、鳥、それから鳥の卵と鳥の糞とである。
さうして、其等無數の鳥共は我々が近寄つても逃げようとはしない。捕へようとすると、始めて僅かに二三歩よたよたと避けるだけである。
大きいのは人間の子供位なのから、小さいのは雀位のものに至るまで、白いもの、灰色のもの、薄茶色のもの、淡青のもの、何萬とも數へ切れぬ數十種の海鳥共が群れてゐるのだが、殘念ながら、私には(同行の船員にも)一つも名前が判らぬ。


138:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:33:51.24 ID:5oT5hL03d

私は唯無性に嬉しくなり、むやみに走り廻つては彼等を追ひかけ廻した。
幾らでも、全く可笑しい位幾らでも、捕まるのだ。嘴の赤くて長い・大きな白い奴を一羽抱きかかへた時は流石に少し暴れられてつつ突かれはしたが、私は子供の樣に喚聲をあげながら何十羽となく捕へては離し、捕へては離しした。
同行の船員等は始めてではないので私程に喜びはしなかつたが、それでも棒切を揮つては大分無用の殺生をしてゐた。彼等は手頃な大きさの奴三羽と、薄黄色い卵を十ばかり、食用にする爲に船へ持ち歸つた。


139:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:34:14.51 ID:5oT5hL03d

遠足に行つた少年の樣に滿足し切つて船に戻ると、下船しなかつた警官が私に言つた。
「あの野郎(ナポレオンのことだ)昨日から不貞腐れて何も喰はんのですよ。芋と椰子水を出して手の繩を解いてやるんだが、見向きもせんのです。何處迄強情か底が知れん。」
成程、少年は昨日と同じ場所に同じ姿勢でころがつてゐた。(幸ひ、そこは陽の射さぬ所だつたが。)私が側へ寄つても、目はハツキリあいてゐるくせに、視線を向けようともしないのである。


140:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:34:49.75 ID:5oT5hL03d

次の朝、即ちS島を出てから二日目の朝、船は漸くT島に着いた。此の航路の終點でもあり、ナポレオン少年の新しい配流地でもある。
堡礁内の淺い緑色の水、眞白い砂と丈高い椰子樹の遠望、汽船目懸けて素速く漕寄せて來る數隻のカヌー、
其のカヌーから船に上つて來ては船員の差出す煙草や鰯の罐詰などと自分等の持ち來たつた鷄や卵などとを交換しようとする島民共、さては、濱に立つて珍しげに船を眺める島人等。それらは何處の島も變りはない。


141:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:35:20.63 ID:5oT5hL03d

迎への獨木舟が着いた時、巡警は、まだ同じ姿勢で椰子バスケットの間に寢ころがつてゐるナポレオン(彼は到頭丸二日間、強情に一口も飮食しなかつたのださうだ)に其の旨を告げ、足の繩を解いて引起した。
ナポレオンは大人しく立上つたが、巡警が尚も其の腕を取つて警官の方へ引張らうとした時、憤然とした面持で、島民巡警を不自由な肱で突き飛ばした。
突き飛ばされた巡警の愚鈍さうな顏に、瞬間、驚きと共に一種の怖れの表情が浮かんだのを私は見逃さなかつた。
ナポレオンは獨りで警官の後についてタラップを降りた。カヌーに移り、やがてカヌーから岸に下り立ち、二三の島の者と共に警官について椰子林の間に消えて行くのを、私は甲板から見送つた。


142:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:35:55.87 ID:5oT5hL03d

此處で七八人の島民船客が椰子バスケットを獨木舟に積込んで下りて行つたのと入違ひに、ここからパラオへ行かうとする十人餘りが同じ樣な椰子バスケットを擔いで乘込んで來た。
無理に大きく引伸ばした耳朶[みみたぶ]に黒光りのする椰子殼製の輪をぶら下げ、首から肩・胸へかけて波状の黥[いれずみ]をした・純然たるトラック風俗である。
一時間程すると、警官と巡警とが船に戻つて來た。ナポレオン配流のことを島民等に言つて聞かせ、その身柄を村長に託して來たのである。


143:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:36:32.42 ID:5oT5hL03d

出帆は午後になつた。
例によつて濱邊には見送りの島の者がずらりと竝んで別を惜しんでゐる。(一年に三四囘しか見られない大きな船が發つのだから。)
陽除の黒眼鏡を掛けて甲板から濱邊を眺めてゐた私は、彼等の列の中に、どうもナポレオンらしい男の子を見付けた。オヤと思つて隣にゐた巡警に確かめて見ると、やはり、ナポレオンに違ひないと言ふ。
大分離れてゐるので、表情迄は分らないが、今はもうすつかり縛めを解かれて、心なしか、明るく元氣になつたらしく見える。
隣りに自分より少し小柄の子供を二人連れ、時々話し合つてゐるのは、既に――上陸後三時間にして早くも乾兒[こぶん]を作つて了つたのだらうか?


144:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:36:34.34 ID:C/FHKgcA0

ダンテの神曲にしろ


145:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:36:36.46 ID:XDTeOwDOa

あれ実話なん?


148:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:38:10.44 ID:jb44N9fn0

>>145
当たり前やん


151:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:39:08.81 ID:5oT5hL03d

>>145
あれってどれや


146:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:37:14.36 ID:5oT5hL03d

船が愈々汽笛を鳴らして船首を外海に向け始めた時、ナポレオンが居竝ぶ島民等と共に船に向つて手を振つたのを、私は確かに見た。
あの強情な不貞腐れた少年が、一體どうしてそんな事をする氣になつたものか。
島に上つて腹一杯芋を喰つたら、船中の憤懣もハンガー・ストライキも凡て忘れて了つて、たゞ少年らしく人々の眞似をして見たくなつたのだらうか。
或ひは、其處の言葉は既に忘れて了つても、矢張パラオが懷しく、そこへ歸る船に向つて、つい手を振る氣になつたのだらうか。どちらとも私には判らない。


147:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:37:30.60 ID:5oT5hL03d

國光丸はひたすら北へ向つて急ぎ、小ナポレオンのためのセント・ヘレナは、やがて灰色の影となり、煙の如き一線となり、一時間後には遂に完全に、青焔燃ゆる大圓盤の彼方に沒し去つた。


149:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:38:49.59 ID:da4iWgVJd

本かったらルビ振ってある?


152:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:40:24.93 ID:5oT5hL03d

>>149
振ってあるで
著作権切れとるし買わんでも電子書籍で読めると思う


150:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:38:57.96 ID:5oT5hL03d

(昭和17(1942)年11月發表)


153:なんJゴッドがお送りします2020/06/03(水) 05:40:39.59 ID:QZgZ+Bxd0

いけるやん!




元スレ:https://swallow.5ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1591127665/
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